シカゴプラン(貨幣改革)とは何か(連載13)

第13回目は、いよいよデット・エンド(借金地獄でTHE END)の欠陥デザインシステム「債務貨幣システム」に代わる、「公共貨幣システム」とは何かということを学んでいきます。

教科書はNPO法人日本未来研究センター理事長山口薫さんの著作

『公共貨幣』「第8章 シカゴプラン(貨幣改革)とは何か」です。

8・1 レバレッジ・ポイントを探せ

債務危機は世界大恐慌を産み出す負債貨幣システムの構造を変革するには、どうすればよいのか。システムには必ずレバレッジ・ポイントがある。それを見つけて、効率よくスマートに利用するのである。レバレッジとはテコのことである。ここではあくまでシステムの構造を崩すために、そのテコを置いてシステムを動かすポイント(システム変数)が重要となるという意味である。

システムダイナミックスの研究者として、こうした考え方に導かれるままに、債務貨幣システムが変革できるレバレッジ・ポイントを必死に探し始めた。そして出会ったのが米国貨幣法(アメリカン・マネタリー・アクト)という貨幣改革法案である。

米国貨幣法の目的とは以下の3点である。

 (1)連邦準備制度を米国財務省に統合し、全ての新貨幣を利付き債務ではなく、政府が貨幣として創造し、一般の厚生を促進するために支出し流通させること。

 (2)銀行業や金融サービス産業ではなく、貨幣制度を国有化し、現在民間機関に付与されている貨幣を創造する権限を中止し、穏やかで気品のある方法で部分準備制度を廃止し、かつ過去に法貨となり未だに流通している民間の信用を全て米国政府貨幣と換算すること。

 (3)新貨幣を、社会の成長・向上のために必要となる教育や健康管理はもとより、21世紀の地球に優しいインフラやエネルギー資源のために支出し流通させること。

直ちに会計SDマクロ経済モデルを用いてシミュレーション分析を開始し確認した。結果は驚くべきものであった。すなわち、前章で分析したように、現行の債務貨幣システムはデット・エンドであるが、この貨幣改革の3条件さえマクロ経済システムに導入すれば、歳出削減や増税をしなくても、国の借金は完済できるというものであった。さらに、リーマンショックのような世界大恐慌も回避できるというシミュレーション結果を得た。

8・2 シカゴプランの誕生

 8・2・1 1929年の株価大暴落と銀行休日

1929年10月24日(木曜日)、28日(月曜日)、29日(火曜日)とニューヨークのウォール街で株価が大暴落し、株価暴落はその後も約1ヶ月も続き、米国は未曾有の大恐慌に突入していった。

表8・1はアーヴィング・フィッシャーが分析したマネーストックM1の激減である。

大恐慌の4年間で現金が10億ドル増えたものの、要求払い預金が80億ドル減少し、その結果、経済活動に必要なマネーストックが70億ドルも消えたのである。

ではなぜ、お金は消えたのか。部分準備銀行制度によって、預金というお金が無から信用創造されるから、またその逆に無に帰すのである。

表8・2は、1930年から1933年までの4年間に全米の銀行資産が641億ドルから404億ドルに、実に236.7億ドル37%も激減したことを示している。

こうして全米で1万行にもおよぶ銀行が閉鎖に追い込まれていった。1933年3月4日に、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが第32代大統領に就任。この頃から米国経済は混乱の極みとなっており、まさに「社会主義革命」の様相を呈していた。

 8・2・2 「銀行改革のためのシカゴプラン」

こうした銀行倒産や銀行休日に直面し、社会主義革命による民主主義や自由主義の崩壊を強く危惧した経済学者がいた。シカゴ大学の経済学者やイエール大学のアーヴィング・フィッシャーらである。まず最初にシカゴ大学の8名の経済学者が「銀行改革のためのシカゴプラン」という5ページの私的な勧告と提案を作成した。

このシカゴプランと呼ぶ銀行改革案にフランク・ナイト教授が署名し、40名を選び、マスメディアにも嗅ぎつけられないように細心の注意を払いながら極秘のうちにこの提案を送付した。

選ばれた一人がウォーレス農務長官で、同長官はこの提案に大変興味を示し、閣議の際にルーズベルト大統領にこの書簡を手渡した。「この提案は非常に素晴らしいものなので、貴殿も時間とエネルギーを割いてこれを検討して頂きたい」と嘆願した。

それでは、この5ページからなる「銀行改革のためのシカゴプラン」の内容とはどんなものだったのか。まず安定的な金融システムを志向する一般的な勧告として、以下の3点を挙げる。

 (a)連邦政府は銀行預金を保証し、これ以上の流通手段(通貨)の減少を防止する。

 (b)この預金保証は、現在の銀行危機の再発を防止する銀行改革の一部とする。

 (c)長期的は通貨管理の基準を採用する想定で、(例えば15%を超えないような)卸売り物価水準の緩やかな上昇をもたらし維持する政策を貨幣当局は公表し、実施する。

すなわち、マネーストックの減少を防止する銀行預金の政府保証と物価安定を勧告している。こうした内容であれば、当時の銀行倒産や銀行休日の現実に直面した経済学者であれば、誰でもが思いつく緊急対策的な勧告であろう。彼らが危惧したのは、この一般勧告を達成する具体的な提案内容である。具体的提案は13項目にわたっているが、以下の3つの概要に集約して説明する(読者の皆さんには、連邦準備銀行を日本銀行と置き換えて読んでいただければより興味が持てるかもしれない)。

概要1:連邦政府は連邦準備銀行の所有と経営を直ちに接収して、連邦準備銀行は連邦準備銀行券を法貨として発行し、連邦準備銀行加盟銀行、非加盟銀行の預金を保証する。

概要2:長期的な銀行改革として既存の商業銀行の持つ預金機能と貸出機能を2つの異なる機関に完全分割する。1つは預金銀行であり、小切手による振り出し可能な預金ならびに要求払い預金を受け入れて、100%の準備金を維持し、預金と資金の振替を行い、その手数料収入を収益源泉とする。他は貸付会社として、預金者からの貯蓄預金や株主や社債権者による投資資金を受け入れ、貸し出し・投資に振り向ける機関である。

概要3:金の自由鋳造や輸入の廃止、金輸出の禁止等。

こうした具体案を見れば、シカゴの経済学者8名が何を危惧したのか、その理由が理解できる。国際金融資本が謀略・策略の末に、多くの上院議員がクリスマス休暇で不在の隙を突いて1913年12月23日に成立させた連邦準備制度を反故にし、かつ、支配の手段として銀行が無からお金を創造できる部分準備制度を廃止すべしという内容となっているからである。第一部を旅してこられた読者には、もうお分かりであろう。このシカゴプランは国際銀行家にとって「虎の尾を踏む」ものであったのである。にもかかわらず、当時のシカゴ大学の8名の経済学者は、勇気を持って、極秘にこの提案を就任直後のルーズベルト大統領にウォーレス農務長官を介して手渡したのである。

 8・2・3 フレデリック・ソディ(ノーベル化学賞)

ザーレンガの大著によると、なんとこのアイデアはオックスフォード大学の化学の教授であるフレデリック・ソディから出てきていた。彼は化学の研究の傍らで、1921年から1934年までの間に4冊の著書を執筆して、物理学(特に、熱力学の法則)に基づいた経済学の見解を展開し、国際貨幣関係の根本的な再構築を目指す活動を続けた。

その過程で、ソディは以下のように当時の銀行システムを鋭く糾弾した。

「技術は豊かな時代を創り上げたが、唯一銀行システムの構造だけが、この豊かさを十分に享受し、貧困を撲滅することを妨げている。」

彼のこの批判は、現在の私たちの豊かな社会の中で急速に進行する貧困や所得格差問題にもそっくりそのまま当てはまる。彼はこうした現状の改革案として次のように提案した。

「政府のみが貨幣を創造し、それを物価の安定に用いる権限を有している。このためには、銀行が貸出(ローン)によってお金を創り出すことを排除する必要がある。要求払い預金に対して政府貨幣のドルで交換できるドルを銀行が保有することを義務付けることによって、それは可能となる。」

このソディの簡素な表現の中に、シカゴプランのエッセンスが全て凝縮されて詰まっている。シカゴ大学のナイト教授は1927年(シカゴプランの6年前)にすでに、1926年に出版されたソディの著書のレビューの中で、「同書のテーマは、正統的ではないが、非常に重要であり、理論的にも正しい。公的機関がわずかな費用でお金を創れるのに、銀行に利子を支払うなんて馬鹿げている」として、ソディの無からお金を創造する部分準備銀行制度批判に同意している。

 8・2・4 グラス・スティーガル法

シカゴ大学の8名の経済学者たちの頼みの綱のルーズベルト大統領は、このシカゴプランを積極的に支持した形跡は見られなかった。彼は銀行家を恐れていたとも言われている。ルーズベルト大統領がシカゴプランの書簡を受け取ったそのわずか3ヶ月後の6月16日に、「1933年銀行法」(別名グラス・スティーガル法)が成立した。この法案の骨子は、以下の2つである。

・銀行預金に保険をかけるために連邦預金保険公社(FDIC)を設立。

・商業銀行業務と証券・投資銀行業務の分離。

シカゴプランの内容が見事に骨抜きされていた。この法案の提出者の一人カーター・グラス上院議員は、1913年にだまし討ち的に成立させられた連邦準備制度法に署名したウッドロー・ウィルソン大統領のもとで第47代財務長官を務めた人物である。連邦準備制度法の成立以来、財務長官ポストは常に連邦準備制度と銀行の利益を擁護するために送り込まれる指定ポストのようになっている。したがって、グラス上院議員も連邦準備制度(銀行)の利益のために、シカゴプランの骨抜きに奔走したと想像できる。

なお、ジキル島で共謀されたといわれる連邦準備制度の成立の詳細については、「G・エドワード・グリフィンの『マネーを生みだす怪物——連邦準備制度という壮大な詐欺システム』2005年10月27日」に詳しい。

8・3 フィッシャーの「シカゴプラン」 

 8・3・1 大恐慌の債務——デフレ理論

シカゴプランの貨幣改革の火は、1933年銀行法(グラス・スティーガル法)の成立を境に、シカゴ大学の8名の経済学者から、米国を代表する貨幣数量経済学者であるイェール大学のアーヴィング・フィッシャーに受け継がれていく。しかし、彼はシカゴプランの提案にあまり興味を示さなかった。

彼の当時のもっぱらの興味は、大恐慌を引き起こすような好況と不況の景気変動の原因解明であり、それ過剰生産や過小消費や過剰設備等といった実物経済的な要因ではなく、主要因は過大な債務超過(銀行ローン)とデフレ(ドルの価値上昇)であると考えていた。そして「大恐慌の債務——デフレ理論」というタイトルの論文を1933年の10月に、経済専門誌Econometricaで発表している。

そこでまずフィッシャーを虜にした債務——デフレ理論を、同論文に沿ってここで簡単に考察することから始めよう。

彼はまず以下の9つの経済変数を抽出する

(1)債務返済

(2)要求払い預金

(3)物価水準

(4)純資産

(5)利潤

(6)生産、取引、雇用

(7)悲観と信頼喪失

(8)貨幣の蓄蔵と流通速度

(9)利子率(名目利子率、および実質利子率)

そしてこれらを用いて、因果関係を演繹していく。

読者の便宜のために彼の思考方法にしたがって図8・1のシステム思考図を作成してみた。

出発点は、バブル崩壊による過剰債務・債務超過である。

① 企業や個人は債務超過を減らすために、銀行ローンの返済をする。その結果

② 要求払い預金が減る。また債務返済の過程で販売が低迷し、貨幣の流通速度が落ちる。その結果

③ 物価水準が下落する。そして、

④ 企業の純資産がさらに減少し始め、倒産する企業も出てくる。同時に

⑤ 利潤も減少し、企業損失も増える。こうして、

⑥ 生産や取引高が減少し、雇用も減る。こうした減少に加えて、企業損失や倒産といった状況から

⑦ 経営者は悲観的になり、ビジネスへの信頼をなくす。そしてお金を使わなくなり、

⑧ 貨幣が蓄蔵され始め、その流通速度もさらに低下してくる。その結果、さらなる

③ 物価水準の下落に拍車をかける。

以上見てきた全ての経済混乱が利子率に影響を及ぼし、名目金利が下がり、実質金利が上昇する(フィッシャーはこの金利変動のさらなる波及効果を分析せず、ここで議論を止めている)。

この因果ループを、本書では実物経済における「不況と失業ループ」と呼ぶことにする。

フィッシャーは、過剰債務・債務超過の発生を「債務」病と呼び、物価下落によるデフレ(ドルの購買力・価値の上昇)を「ドル」病と呼んだ。そして、「債務」病が要求払い預金を収縮させて物価を下落させ、デフレの「ドル」病を引き起こし、その結果、債務者の実質債務をさらに増やしてゆくと分析している。すなわち、「債務者が返済するほど、彼らの債務は増える」ことになり、その結果「債務」病と「ドル」病が相互作用しあい、病気をますます深刻なものにしてゆくと分析する。このループを本書では貨幣経済における「信用収縮ループ」と呼ぶことにする。物価下落に焦点をあてると、デフレスパイラルとなる。

以上考察してきたように、フィッシャーは大恐慌から抜け出せない米国(世界)の経済を、「不況と失業ループ」と「信用収縮のループ」にあると分析した。これらのループは2つとも増強ループとなっている。すなわち、借金で金利がさらに膨れ上がるという第5章で分析した借金地獄の指数的成長ループと同じ構造になっている。これではいつまでたっても長期不況から抜け出せないことは容易に理解できる。

フィッシャーのこうした見事なシステム構造分析は、実は彼が提案した独創的な交換方程式からそのアイデアを得たのではと思った。フィッシャーの交換方程式は、次のように簡単に表される。

                                      MV=PT

M:貨幣量、V:貨幣の流通速度、P:物価、T:財・サービスの取引量

つまり

(貨幣量)×(貨幣の流通速度)=(物価)×(財・サービスの取引量)

ある量の貨幣と貨幣の流通速度をかけた総額=(世の中で取引された財・サービスの物価)かける(取引量)ということになります。

そこでこの交換方程式を用いれば、彼のシステム構造分析は次のような因果ループとして容易に導き出せる。

不況と失業ループ:債務返済→M及びVの収縮→MVの合成収縮→Tの収縮→M及びVの収縮

信用収縮ループ:債務返済→M及びVの収縮→MVの合成収縮→Pの下落→債務返済

それでは、この大恐慌(増強ループ)から抜け出すにはどうすればいいのか。システム思考的には、これらのループをどこでどのように断ち切るかである。フィッシャーの答えは単純明快である。貨幣経済における信用収縮のループを断ち切ることである。フィッシャーはこの信用収縮ループを断ち切るには、物価水準は制御可能であるので、それを上昇させればいいと考えた。具体的には連邦準備制度が公開市場操作で国債や証券を買い上げて、貨幣量を増加すれば物価も自ずと上昇すると考えた。この政策をここではリフレーション政策と呼ぶことにしよう。

図8・4にあるように、このリフレーション政策によって物価が緩やかに上昇し、やがて経済が「ドル」病から回復すると考えた。しかしながらこの公開市場操作の買いオペ効果も期待外れで終わった。そこで彼らは金融の「量的緩和QE」へとこの政策をエスカレートさせていった。それを推進しているのが日本ではリフレ派経済学者の経済政策であり、金融緩和はアベノミクスの三本の矢の1つとなっている。彼らの立脚する経済理論がこのフィッシャーのリフレーション政策なのである。

 8・3・2 100%準備システム

1934年頃からフィッシャーは急速に、シカゴプランの貨幣改革に傾倒するようになる。

部分準備銀行制度(フィッシャーの表現では10%システム)のもとでは、マネーストックの大部分である要求払い預金は信用創造によって無から創造されたり、また破壊されたりする。この要求払い預金の増減は経済活動の中から内生的になされるもので、中央銀行や政府もコントロールできない。

フィッシャーは不況をもたらす根本原因は現行の債務貨幣システムにおける部分準備銀行制度であると、確信したのである。今日、欧米諸国が実施する量的緩和(リフレーション)政策でマネタリーベースは増加するが、マネーストックは増加せず、不況が長期化している現状を冷静に観察すれば、フィッシャーのこの確信が歴史的に実証されたとも言える。

フィッシャーは、現行の10%システム(部分準備銀行制度)が要求払い預金を収縮させるのであり、100%準備のもとでそれをなくせば要求払い預金は収縮しなくなるので、大恐慌のような不況は生じないということを確信した。

図8・5は、100%準備とした場合に、彼の債務——デフレ理論がどう変更されるかを示したものである。100%準備の場合には、たとえ不況で過剰債務や債務超過となって債務が返済されたとしても、要求払い預金は流通から消えることがない。また、流通速度も影響されない。すなわち、債務返済から要求払い預金や販売に出ていた矢印が消えて、信用収縮のループが断ち切られることになる。その結果、フィッシャーが分析した不況をもたらす「債務」病も「ドル」病もなくなる。また、たとえ発生したとしても実物の経済活動には影響を与えなくなる。リフレーション政策では、「ドル」病の影響はなくせるが、「債務」病の影響はなくせなかった。100%準備のもとでは、たとえこれらの病気が発生したとしても、それらが好況や不況といった景気変動や大恐慌をもたらす原因とはならないということを確信した。

フィッシャーは、リフレーション政策を自らの手で葬り去った。現在のリフレ派経済学者は、フィッシャーのこの元祖リフレーション政策から100%準備政策への理論的深化(転向)をどのように評価するであろうか。

 8・3・3 100%準備システムがもたらす利点

1935年で68歳になるフィッシャーは益々精力的になり、同年4月に『100%マネー』という装いも新たなタイトルで、彼自身の「シカゴプラン」バージョンを出版した。「100%マネー」とは、銀行が中央銀行(日銀)に準備金として預ける準備率を100%にするということである。その結果、要求払い預金は全額(100%)中央銀行(日銀)に当座預金として預けなければならず(または銀行が自ら預かり金として保管、管理しなければならず)、以下のようにマネーストックは、マネタリーベースと等しくなる。

マネーストックM1=現金(流通通貨)+要求払預金

         =現金(流通通貨)+日銀当座預金

         =マネタリーベース

この結果、民間銀行は要求払預金を信用創造できなくなり、マネーストックは中央銀行が創造するマネタリーベースと同額で流通し続け、変動がなくなる。

1933年3月にシカゴ大学の経済学者からシカゴプランを極秘に受け取ってから苦闘2年、フィッシャー版「シカゴプラン」がついに完成した。

 8・3・4 1935年改訂銀行法の攻防

1933年の年末頃から、自ら積極的にシカゴプランの推進者となり、その提案が広く認知されるように積極的に活動を展開していった。

1934年7月16日、フィッシャーは100%マネーの草稿をカッティング上院議員らに送った。カッティング上院議員は、「興味を持って同書を検討し、次回の議会開催中に何らかの方策をとる」と約束した。1934年後半にはフィッシャーはルーズベルト大統領に4回面談し、貨幣改革を働きかけた。

1935年。ルーズベルト大統領へのこのような積極的な働きかけにもかかわらず、彼の反応は鈍かった。フィッシャーは2月24日付の息子宛の手紙でルーズベルト大統領への苛立ちを次のように書いている。「議会は100%準備のアイデアを受け入れる準備ができているが、大統領は銀行家を恐れている」。

4月に待望の『100%マネー』初版が出版される。出版直後の4月23日に、ルーズベルト大統領にすばやく同著書を送付。大統領に宛てた献本の書簡で、フィッシャーは大胆にも次のように記した。

「率直に言って、私は貴殿の貨幣制作の進捗の鈍さに大変失望しています。・・・100%マネーのプランは、私たちを不況からすばやく、しかも他のどんなプランよりももっと確実に抜け出させてくれます。」

カッティング上院議員の法案提出を契機に、銀行家の影響下にある議員の動きが激しくなり、

4月19日にスティーガル下院議員が1935年改訂銀行法(H.R.7617)を提出。

5月6日、ブロンソン・カッティング上院議員をのせたTWAダグラスDC−2機がニューメキシコのアルバカーキーからワシントンDCに向かう途中、アトランタ近くで墜落して同議員が死亡。カッティング上院議員事故死の3日後の

5月9日に1935年改訂銀行法が下院で成立した。

7月25日、1935年改訂銀行法(H.R.7617)の代案を、ノース・ダコだ州ジェラルド・ナイ上院議員が提出。これは事故死したカッティング議員が提案した法案(S.2204)が目指したシカゴプランの2つの内容に加えて、物価安定化の内容を含めたものである。いわば、カッティング上院議員の弔い合戦のような法案であるが、賛成10、反対59、危険27で否決された。そして、グラス・スティーガル法で暗躍したグラス上院議員が、H.R.7617に修正を加えて、政府の役割強化を除去する1935年銀行法修正案を提出し、同修正案は

8月23日に成立した。

この修正案は、以下の2点を特徴としていた。

・1933年のグラス・スティーガル法に基づき設立された米国政府の連邦預金保険公社(FDIC)を政府の永久公社とする。

・連邦準備法を改正して、理事7名から構成する理事会を新設し、連邦準備理事会に準備率を決める権限を与える。さらに連邦公開市場委員会(FOMC)を、連邦準備制度理事会の理事7名プラス地区ごとの連邦準備銀行総裁5名で構成するものとして、アメリカの金融政策を決定する最高意思決定機関とする。

1935年修正銀行法もグラス・スティーガル両議院の活躍で、連邦準備制度や銀行家に有利なものとなるように骨抜きにされ、フィッシャーらが目指したシカゴプランの修正案はまたもや葬り去られた。

カッティング議員の事故死がなければ、事態は180度違った方向に動いていたであろうことは容易に想像できる。

 8・3・5 「貨幣改革のためのプログラム」

シカゴプランのその後の法制化は、同プランの熱烈な支持者であったカッティング上院議員の事故死もあり、1935年銀行法で一件落着状態となった。そのためフィッシャーは戦術の変更を余儀なくされたようで、これまでのように個人で活動するよりは今度はグループとして、しかもアカデミックな経済学者からの支持も得られるように方向転換した。

具体的には

1939年7月、フィッシャーは他の5人の経済学者と連名で、「貨幣改革のためのプログラム」を新たに提案した。フィッシャー72歳の時である。

オリジナルの「銀行改革のためのシカゴプラン」は、あくまで銀行改革を勧告するプラン(計画)という主旨のものであった。今回の「貨幣改革のためのプログラム」は銀行改革から一歩踏み出して、それをも含む広義の貨幣改革というようにより包括的なものになっており、しかもプラン(計画)の段階をすでに通り越して、プログラム(実施のための作業工程)の段階に来ているという意味合いを強調している。フィッシャーの『100%マネー』で盤石となった貨幣改革の理論的基礎づけがそこに反映されている。すなわち、貨幣改革理論として経済学者の議論に耐えうるものになっているという6名の経済学者グループの自信がそのタイトルに表現されている。このようにオリジナルなシカゴプラン提唱者7名の離脱はあったものの、それを契機として、シカゴプランの理論的支持基盤が新たな6名のグループを中心に全米に広がったことは十分に評価できる。

このプログラムは、全部で18項目からなっているが、そのコア部分の提案はすでに100%準備システムの節で述べた2点である。すなわち、独立の貨幣委員会の設立と100%準備である。

この貨幣改革プログラムが指摘した以下の2つの貨幣問題は、私たちが現在直面している経済問題とまったく重なっていることにまず驚く。すなわち

・部分準備銀行制度は、銀行が貸出や投資を増やしたり減らしたりすることにより流通貨幣量を増減させることになる権限を銀行に与えている。・・・こうしたことが、好況や不況をもたらす要因となっている。

・現行の部分準備制度のもとで経済成長に必要な流通貨幣量を供給するということは、政府が国債による債務を継続的に増大させるということである。

このように部分準備銀行制度が不況や債務増大の根本原因になっているということを指摘して、この貨幣改革プログラムはこうした問題点を除去し、アメリカを再興させる役割を演ずるものであると主張する。したがってこのプログラムは同時に、私たちが現在直面している経済問題(不況と政府債務危機)を解決するための指針を与えてくれるものでもある。後述するように、シカゴプランに立脚した「公共貨幣システム」によって日本経済を再興させることができるという希望の光となる。

 8・3・6 フィッシャー晩年の挑戦

貨幣改革プログラム作成から2年後の

1941年、フィッシャーら6名の経済学者グループは同様の提案を再度ルーズベルト大統領に送り、今回は約400名の経済学者がこの提案を支持している旨を述べた。フィッシャー74歳の時である。

1941年2月13日付のフィッシャー宛の返信で、ルーズベルト大統領は「この提案を注意深く検討する」旨の返事をしたが、その後大統領がこの提案に興味を示したという気配は見られなかった。

1945年10月に、フィッシャーは『100%マネー』第3版を第2版と同じ内容で出版した。フィッシャー78歳の時である。フィッシャーはこの第3版を、ヴォーヒス下院議員が提案した法案(H.R3648)を擁護するために出版した。第3版のまえがきによると「この法案は100%マネーの実現を目指して、インフレとデフレを阻止し、米国の債務問題を解決するための法案である」と説明している。ジェリー・ヴォーヒスはカリフォルニア州選出の民主党の下院議員で、同法案を

1945年7月2日に提出した。彼は連邦政府が連邦準備銀行の株式をメンバー銀行の株主から購入して、政府支出を賄うべきであると提唱して、ルーズベルト大統領に促していた。さらに下院銀行委員会のライト・パットマン議長と協力し、米政府が支払う国債の利子を連邦準備銀行の株主ではなく米政府に支払うように活動していた。

1946年フィッシャーは米国経済学会(AEA)の会員に大量のメールを送り、100%準備プランの承認を懇願した。そして当時のAEAの会員 4,662名のうち、1,100名以上の会員から賛同の回答を得た。その名簿リストがヴォーヒス下院議員に手渡され、議会記録に納められた。

1946年5月7日には、シカゴプランのオリジナルな提唱者であるサイモンズに次のような書状を送付している。

「これが最後の呼びかけです!もし貴方が未だに、将来のインフレやデフレを回避する「100%プラン」に承認を表明されていないのならば、今すぐそうしてくれるように希望します。または、その決心を準備するために私の著書を読まれることを。」

この時、フィッシャー79歳。この書簡を受け取ったサイモン図教授はフィッシャーより33歳も若かったが、その約1ヶ月後の

6月19日に46歳の若さで死亡(睡眠薬の過剰摂取か自殺か、死因は未だに不明)。

フィッシャーの不運はさらに続く。100%マネーの法案を提出したヴォーヒス下院議員が1946年の選挙で、落選。フィッシャーとしては最後のチャンスとなるシカゴプランの法制化の夢がまたもや潰えた。

にもかかわらず、フィッシャーは希望を失うことなく死の直前まで貨幣改革に取り組み、

1947年4月29日に満80歳でその生涯を閉じた。その約1ヶ月前の

3月27日、彼は入院先の病院からハリー・トルーマン大統領に長文の書簡を送り、「銀行ローンと要求払預金の結びつきを切断する法律」の必要性を訴えた。さらに死の直前の1週間前後に渾身の力を振り絞って、最後の執筆原稿 ” Our Inflation and Deflation - How Come? How Stop? ”を次のように修正した。すなわち、100%準備は「デフレの恐れがあるときには貨幣を投入し、インフレの恐れがあるときには引き上げるという方的条件の制定」と一緒に実践されなければならないと。

シカゴプランに関するこの文章をまとめる過程で、今回初めて、フィッシャーのこの最後の修正原稿のことを知り、大変驚くと同時に、彼から激励されたような思いがこみ上げてきた。何故ならば、2011年にワシントンD.C.の第29回国際システムダイナミック学会で研究報告した論文で提唱した「流通貨幣量の増減による公共貨幣政策の法的条件制定の必要性」とまったく同じ内容となっていたからである。会計SDマクロ経済モデルによるシミュレーション分析と天才経済学者フィッシャーの直感的な思考分析が見事に重なった瞬間である。

私たちは現在、第13章で詳述する日本国公共貨幣法(日本版シカゴプラン)を多数の超党派議員による議員立法として国会で成立させていただきたいと念願している。フィッシャー等、シカゴプランを提案した1930〜1940年代の勇気ある経済学者や政治家の夢、すなわち不況や失業、インフレやデフレ、政府債務危機等から自由な経済社会を創造したいという夢を日本から実現させたいと念願している。

8・4 ケインズの一般理論

 8・4・1 雇用・利子および貨幣の一般理論

ケインズが1936年に出版した『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、大恐慌の原因を、フィッシャーが否定した「過剰生産や過小消費や過剰設備等といった要因」に求めており、その意味で経済理論的には『100%マネー』の対極に位置づけられる本である。

それでは、フィッシャー等のシカゴプランとは異なり、ケインズは大恐慌の原因をどのように解明したのか。

ケインズはまず失業の原因は、過剰生産や過小消費や過剰設備等のために、労働者も余剰となり、十分な雇用機会が奪われることにあると考えた。この過剰生産による需給の不一致を捉えるために、マクロ的に経済活動が分析できる総需要と総供給という概念を導入した。マクロ経済学という巨視的抽象概念で経済活動を捉える理論の始まりである。そう供給は、生産技術や生産設備、労働力等の生産能力や生産要素の組み合わせで決まる。一方、総需要は、消費、投資、政府支出、純輸出(輸出ー輸入)の合計で決まる。この総需要の大きさがGDP(国内総生産)を決める有効需要となり、GDPの水準はその有効需要で決まる。そこで失業が発生するのは、この総需要がそう供給を下回るからであると分析した。

それでは大恐慌時や不況時に発生する失業を減らすにはどうすればいいのか。この理論からは、有効需要を増やすしかない。有効需要を増やすためには、その構成要素である消費、投資、政府支出、純輸出をそれぞれ増やすしかない。しかしながら、消費や純輸出は、消費者の消費行動や、海外の景気変動等に左右され、制作変数とはなりにくい。そこでケインズが注目したのは、投資と政府支出を増やして有効需要を増大させるというアイディアである。政府支出の場合には、政府が借金をして財政出動すれば、その何倍かのGDPが増加させられる。ケインズ経済学ではこれを財政の乗数効果と呼ぶ。投資の場合はどうか。起業家は投資から得られる資本の限界効率と調達資金コスト(利子率)を常に比較して、利子率の方が低ければ投資を決定するので、利子率を下げれば、投資は必ず増える。投資が増大すれば、その乗数倍のGDPが増えると考えた。

では利子率はどうすれば下げられるのか。貨幣供給量を増やせば可能であるとケインズは考えた。フィッシャーは、当初、貨幣供給量を増やせば、物価が上昇するので、債務の負担が軽減され、経済が刺激されるという債務−デフレ理論(リフレーション理論とも呼ばれる)を構築したが、債務返済が同時に要求払預金(マネーストック)を減少させるということに気づき、シカゴプランに辿り着いた。それに対して、ケインズは債務返済効果にはあまり注目せず、貨幣量は経済活動の中で内生的に変動するという考えにいたらず、あくまでも貨幣量は外生的に制御できるという立場を堅持し、一般理論を構築した。すなわち、貨幣量を増大させて金利を下げ、投資を誘導するという金融政策の有効性を提唱した。

このようにして、ケインズは財政、金融政策で有効需要を増加して総需要と総供給を一致させ、完全雇用を達成させるという大恐慌や不況からの脱出処方箋を提案した。

1929年の世界大恐慌以前は、「市場は常に神の見えざる手によって近郊に導かれる」というアダム・スミスに始まる古典派の「古いアイディア」が横行しており、当時のハーバート・フーヴァー第31代大統領もこうした古いアイディアに捉われていて、市場は放っておいてもやがて回復すると信じて、大胆な不況対策を取らなかった。そのことが、銀行の大倒産劇を引き起こし、やがてシカゴプランの提案や、ケインズの一般理論の出現につながったと考えられる。

その後、この一般理論の単純なアイディアが多くの経済学者や政策担当者の心を捉え、あたかも「ケインズ革命」のような広がりを見せ、やがてマクロ経済学として一般理論がその専門分野を確立していったのみならず、ケインズの財政・金融政策があたかも政府の不況対策の定番政策として幅を利かせていった。しかしながら1970年頃からスタグフレーションといわれる失業とインフレが混在する時代となり、ケインズ経済学は急速に失速し始めた。

以上のように、私たちは1929年の世界大恐慌から2大教訓(フィッシャーの100%マネーとケインズの一般理論)を得たが、ケインズ一般理論の隆盛と反比例するかのように、シカゴプランは衰退の運命を辿っていった。そして、2008年に再び、リーマンショックという金融恐慌に起因する破局を迎えたのである。

 8・4・2 ケインズとシカゴプラン

ケインズはシカゴプランの提案にどのように対応したのであろうか。

ケインズはルーズベルト大統領が恐れた銀行家の立場に立っていた。そして、マネーストックが信用創造で内生的に増えたり破壊されたりするといったことを知りながら、それが大恐慌の原因であるとは結論づけなかったといえる。フィッシャーはシカゴプランの提案を受け取って、債務ーデフレ理論を放棄したが、ケインズはそれとは対照的に、一般理論における貨幣の役割をその後も修正しなかった。こうしたケインズの一般理論における貨幣の取り扱いについての欠陥が、現在の政府債務危機に繋がってきている。

8・5 闇に葬られたシカゴプラン 

 8・5・1 ミルトン・フリードマンのシカゴプラン

1913年12月に連邦準備法(Federal Reserve Act)が施行され、100%民間所有の米国中央銀行、連邦準備制度が誕生した。国際金融資本による債務貨幣システムに立脚した世界経済制覇の完成である。すなわち資本主義国のみではなく、その後に誕生したソ連や中国等の共産主義社会の経済も、ほとんど同じ債務貨幣システムのもとで運営される世界規模の金融システムが完成したのである。1929年の世界大恐慌はこの金融システムへの最初の挑戦であり、その代替システムとしてシカゴプランによる貨幣改革案が、フィッシャーら当時の経済学者によって提案された。しかしながら、フィッシャーが1947年に80歳でその生涯を閉じてからは、その後、彼のように積極的に貨幣改革を提唱する経済学者がいなくなり、シカゴプランは徐々に闇の中に葬り去られるようになった。

唯一の希望は、シカゴ大学の院生時代にシカゴプランのオリジナル提案者から、銀行改革案を直接に学んだ若きミルトン・フリードマンであった。

フリードマンは研究活動の初期段階で、シカゴプランが金融や貨幣の不安定を取り除く最善の政策であると提案していた。

しかしながら、ここに予期しない事態が発生した。ケネディ大統領の暗殺である。ケネディは米国社会は秘密結社によって秘密裏に支配されていると警告した。そして、その支配の手段が連邦準備制度による貨幣発行権の独占であると考え、このタブーに挑戦するかのように、1963年6月4日に大統領行政命令第11110号を出して、米国政府による政府紙幣の発行を命じた。そしてその半年後の11月22日に暗殺された。勿論、ケネディ大統領暗殺の理由は未だに謎のままである。しかしながら、第二合衆国銀行の更新を拒否して暗殺未遂(1835年)にあったアンドリュー・ジャクソン大統領や、政府紙幣グリーンバックを発行して暗殺(1865年)されたリンカーン大統領らは、いずれも政府紙幣発行に関わって暗殺未遂や暗殺にあったとされている。偉大な米国の貨幣経済学者であるフリードマンが、こうした自国の歴史に無知であるはずがない。

シカゴプランのオリジナルな提案者であったヘンリー・サイモンズやロイド・ミンツから直接薫陶を受けたフリードマンではあったが、彼の内面にその後何らかの変化が生じたのではないのかといった創造も容易に可能である。なぜならば、シカゴプランはまさに政府貨幣の発行を提案しているからである。その一方で、1960年代にはケインズのマクロ経済学の成功により持続的高度経済成長が実現され、もはや大恐慌のような経済危機は幸福されたとみなされた。こうした時代の流れの中で1976年にフリードマンはノーベル経済学賞を受賞した。それと同時に、彼のシカゴプランに対する情熱は消滅していったようである。そして、シカゴプランはいつしか経済学の主流から完全に忘れ去られてしまった。

 8・5・2 タブーとなったシカゴプラン

1985年のチャレンジ誌のジョン・ホッソン教授の記事で、フリードマンは100%準備を放棄したように見えると指摘されたことに対して、非常に弁解がましく、100%準備には賛成であるが、政治的にはそれが実現される可能性はない、と突き放している。政治的に実現の可能性がないとはどういう意味なのであろうか。

1992年に『貨幣安定のためのプログラム』第10刷が増刷され、フリードマンはそのまえがきを新たに追加した。そして、まるで他人事のようにこう述懐している。

「不幸なことだったが、シカゴプランの提案は数十年間、完全に無視されてきた。・・・シカゴプランに反対する政治的既得利益者はあまりにも強すぎる。納税者や経済活動の参加者として便益を得ている市民は、シカゴプランから得られる便益を知らないし、その影響を行使するにはあまりにも組織化されていない。」

彼は当時スタンフォード大学の保守系フーバー研究所にいて、フィッシャーのようなシカゴプラン実現への情熱をまったく失っていた。フリードマンもいつしか傍観者のようになり、シカゴプランは経済学の世界では無視されるのみではなく、タブー視されていった。シカゴプランの研究をすれば、大学の仕事がない、職場を追われるということで、経済学者は一切こういうことを話さないし、大学で教えないという状況になった。怖くて言えない。いったらすぐに大学を追われる。そういう時代となっていった。

こうした時代背景の中、2012年に出版されたローマクラブEU支部への報告書は、現行の金融システムの失敗を認め、第9章で述べる筆者(山口薫)の米国議会ブリーフィング(2011年7月)にも言及して、シカゴプランの有効性を高く評価した。それにもかかわらず、「シカゴプランのどのバージョンであろうとも、銀行システムによって死に至るまで殲滅されるであろう」といって、同プランの提唱者に対する脅迫ともとれるような表現を用いて、シカゴプランは「政治的実現性」がないと断言した。経済学者の多くは保身のために未だに一切このタブーに関わろうとしない。

しかしながら、ここで私たちは悲観的になる必要はない。第12章で述べるように、ここ数年でこのタブーが急速に崩壊し始めているからである。

 8・5・3 グラス・スティーガル法の廃案

シカゴプランの代案として1933年に成立したグラス・スティーガル法は、曲がりなりにも金融システムをそれなりに安定させ、1929年のような大恐慌を回避してきた。しかるに、同胞を廃案にするための法案が、1999年に上院ではテキサス州の共和党議員フィル・グラムによって、下院ではアイオワ州の共和党議員ジム・リーチによって提出され、それぞれ共和党による賛成多数で可決された。民主党のビル・クリントン大統領は、共和党主導のこの法案に拒否権を発動することなく、1999年11月12日に署名し、グラス・スティーガル法は66年に渡るその幕を閉じた。

グラス・スティーガル法の廃案は同時に、8名のシカゴ大学の経済学者が1933年に極秘に提案したシカゴプランが、完全にその息の根を止められたことを意味する。この時点で、米国経済は1929年の正解大恐慌以前の状態に遡ったようになった。すなわち、銀行業務と証券・投資業務との垣根が再び取り払われ、これにより銀行はより大きなレバレッジをかけて高リスクのサブプライム等のデリバティブ商品に手を回すことができるようになった。同時にケインズ経済学の衰退で、新古典派的な市場原理主義が再び台頭し始め、金融市場では金融のビッグバンといわれる金融の自由化、グローバリゼーションが加速された。経済学も1929年の大恐慌以前の(新)古典派経済学の世界に引き戻された。

こうした状況の中で歴史は繰り返された。2008年の第二次世界大恐慌(リーマンショックによる金融恐慌)である。


今回は以上です。

次回は、公共貨幣システムのデザインを勉強していこうと思います。